Volume 1
デキシーランドジャズ誕生の歴史
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(1)ルイジアナ州ニューオーリンズ
ニューオールリンズの位置  拡大
「ジャズ」はアメリカ南部のルイジアナ州「ニュ一オーリンズ⇒N.O」の町から全世界に広まった20世紀を彩るアメリカが世界に誇れる素晴らしい財産の一つでもあります。
この全てのジャズの源となる「デキシーランドジャズ」は21世紀の今でも全世界で実に多くの人々に愛されていますが、その起源を遡りますと、このアメリカ南部の『ニューオーリンズ』の町での出来事が多大である事は否定出来ません。
そこで先ずはN.Oの町のお話から始めましょう。
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ニューオーリンズの歴史(1300年代~1700年代)
N.Oはアメリカ合衆国南部の大河、ミシシッピ一河河口の肥沃なデルタ地帯に位置し、極めて良港として恵まれた地形だった為、既にかなり古い時代からここには人々が住んでいたと言われています。
一説では12世紀(1300年代)には既に北欧のバイキングがやって来ていた痕跡がみられ、更に世間一般に知られているコロンブスの新大陸発見(15世紀後半1492年)の半世紀以前には既に中国人が入って来て一つの文化を形成していたとも言われています。
その証拠の一つに、何とこの地に『万里の長城』と同じ作りの建造物が見つかっています。
15世紀にヨーロッパ諸国で起きた「世界植民地奪取時代」にこの地は当時最大の艦隊を有していたスペインが一番乗りをし、それから二百年程はスペインの領地となっていました。
1726年 ミシシッピー河対岸からの
ニューオーリンズ市遠景
出典:ウィキペディア

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異国ムードが漂うN.Oの町

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フレンチクオーター
Author:Falkue at de.wikipedia
出典:ウィキペディア
時代は移り17世紀、1600年代になるとこの地をフランスが統治する様になり、多くのフランス入が移り住み、フランス文化の香りのする美しい町へと発展して行きます。
N.Oの町は今でもここかしこ、町の一角にスペイン情緒の町並み、フランス情緒の町並みと、異国ムードが漂うのはその時代の名残りなのです。
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奴隷貿易
18世紀に入って1712年、この地の主要産物となっていた砂糖きび畑や綿花畑での利益追求のみで人としての心等全く無い、只目先で起こっている大問題、労働力確保の為に傲慢(ごうまん)で身勝手な白人の考えから、当時の白人支配の世界ではどうどうと『暗黒大陸』と称されていたアフリカから黒人を人としてでは無く、只白人に好都合の労働力としての奴隷を連れて来る制度⇒「奴隷制度⇔奴隷貿易」が始まり、この町の人口は突然膨れ上がり1718年からそれ迄四百人だった町が僅か四年程で一気に八千人を超す程に一変し、この町は黒人奴隷労働者の町と化したのです。
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結婚条件付き異国移送
ここでやっかいな一つの大きな問題が派生します。
時の白人(スペイン人、フランス人)農場主としては当然しっかりとした労働力確保にと、やたら屈強な力のある黒人男性ばかりを優先し、かき集めてばかりいたので、そうなると子供が出来ないだけで無く必然的に狂暴化の恐れが出始め、白人農場主達にとってはその恐怖感を募(つの)らせる日々が続きます。
と同時に各所で黒人奴隷による暴動等の社会問題が随所で派生しました。
これに慌てた時のフランス政府は問題解決にと、急遽、フランス国内の刑務所に服役している女刑囚や巷の売春婦を集めてN.Oに送り込み、無理矢理黒人奴隷と結婚させると言う破天荒な政策を取り入れこの悩みを解決しようと、その政策を決行したのでした。
「奴隷制度⇔奴隷貿易」や「囚人女性の結婚条件つき異国移送」等の、こんな話、今では無茶苦茶でとても信じられない話ですが、当時の白人社会そしてその時代のフランス人気質は全てが大らかだった様でこれ等の政策はむしろ人々に大いに歓迎されていた様です。
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クレオ一ル人
こうして黒人男性奴隷とフランス等から半ば強制的に送られて来た白人女性の結婚、更に既にこの地にいたヨーロッパ系の白人女性と黒人奴隷の男性、更に暫く後になってアフリカから連れて来られた黒人女性と農場主や農場関係者等の白人男性との問に生まれた混血の子供達は皆「クレオール人」と呼ばれ、その後の「ジャズ誕生とその発展」に大きな足跡を残す事になります。
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N.Oの歴史(1700年代~1800年代)黒人の音楽

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18世紀後半頃のコンゴ・スクウェアの様子
出典:ウィキペディア
当時のN.Oの町にはスペインの音楽や、そのスペイン音楽の源となるエジプトのジプシー音楽、カドリールやワルツと言ったフランスからの音楽が広まっていましたが、アフリカから船底に詰め込まれ連れて来られ一切自由の無い黒人奴隷達にとっては実に苛酷な黒人集会と音楽の禁止と言う弾圧が為されていましたが、彼等は全ての音楽を彼等なりに変えて楽しんでいたのです。
人として認められる事無く教育等も全く受けられない、教会に入る事すら許されない、無論、白人社会の楽器等には触る事も出来ないし、話面等は読めない、一切の集団行動団体活動は禁止! こんな彼等が細々と出来得た音楽と言うと、手製の打楽器を始めとした質素な楽器を駆使し、己の体を動かしエネルギーを強烈に発散させる(シミー/SHIMMY)ダンスや、体の底から発する呻き声(シャウ卜/SHOUT)、叫び(ブルース/BLUES)等の極めて限られた物でした。
黒人奴隷達に課せられた苛酷な条件下ではとても音楽等を楽しむ余裕やゆとり等は一切無かった筈ですが事実は全く逆で彼等のバイタリティーはそんな事でくじける様な甘っちょろい物では無かったのです。
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プランテーション・ソング
拡大1780年代のワークソングを楽しむ様子
出典:ウィキペディア
日々苛酷な砂糖きび畑や綿花畑等での重労働の際には「プランテーション・ソング」(農園の歌)や「ワーク・ソング」(労働歌)、「ボ一ト・ソング」(港湾荷役労働の際の歌)を唄い、一日の苛酷な労働を終え只疲れきった体を寝るだけの小さな奴隷小屋に帰る道すがら歌う「ロンギング・ソング」(憶れの歌)等々、この時代でもあらゆる形で黒人の音楽は確実に成長して行ったのです。
砂糖きび畑や綿花畑で働く黒人女性奴隷を大勢集めて開かれた"美人コンテスト"は彼等の楽しみの一つで、その賞品として白人農場主が用意したのが黒人にとっては憧れの甘いケーキだったので、そこから生まれた独特な腰の振り方をする、「ケークウォーク・ダンス/CAKE WALK DANCE」(これは後にストラット/STRUTと呼ばれる)が流行し、それに相応(ふさわ)しいリズムとメロディーが生まれました。
ここで育まれた黒人のもたらした一般的に「コール・アンド・レスポンス/CALL & RESPONSE⇒呼びかけと呼応」と云われる形式とブルースの感覚が後のジャズの母体を形成して行くのです。
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ニグロ・スピリチュァル
黒人奴隷は入る事すら許される事の無い教会から流れて来る、彼等にとっては全く異文化の讃美歌のメロディーを自分達独自の歌に変え、聖書の中の題材を基調とした「ニグロ・スピリチュアル/NIGRO SPIRITUAL」を産み出します。
この「黒人霊歌」は南北戦争後の1870~80年代に全米で大ブームとなり、白人社会の人々にも好感を呼び受け入れられ一世を風靡するのです。
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デキシーランドの呼び名の由来
メーソン・ディクソンライン説
拡大メーソン・ディクソンライン
出典:ウィキペディア
18世紀、1712年から始まった奴隷貿易はアメリカ国内の少数の人々から「人種差別」だと言った非難の声が出始めますが、その当時のアメリカを動かしていた東部の少数人々の意見等はアメリカ南部の遠い異国の地、N.O迄には全く届きません。
やがて19世紀後半にそれが表面化し、第十六代大統領「リンカーン」が登場し、南北戦争(CIVILWAR/1860~65)へと発展しますが、それより一世紀程前にアメリカの北と南の境界線を正確にどこにするかが話題になった時期があり、
1768年イギリスの天文学者「チャールズ・メーソン」と「ジェアーミン・ディクソン」の二人によって計測された北緯39度43分に引いた境界線、これは一般に「メーソン・ディクソンライン」と呼ばれ、ここで初めてアメリカの南北の境界線なるものが正式に設定されます。
これによりアメリカ人にとって「北」と「南」と言う定義が人々に序々に浸透して行き、この時代の北部の人々にとっては未だ見た事もないアメリカの南部、境界線の南側を、この境界線の測量をした際の一人である、イギリス人女性の「ジェアーミン・ディクソン」の名を用い「ディクソンランド⇒デキシーランド」と呼ぶ様になり南部に特別な親しみあこがれを抱く様になります。と言う説
フランス貨幣説
拡大紙幣の裏面
出典:ウィキペディア
デキシーランドの呼び名の南部地方の最も一般的な通説としては、N.Oがあるルイジアナ州がフランス統治時代から長期にわたりフランス貨幣が使われていた頃、その最も使用頻度の高かった10フラン紙幣を呼ぶフランス語の(10)⇒ディスの響きから「DIX-LAND⇒デキシーランド」と呼ぶ様になったと言う説も人々に良く知られています。
ヒット曲デキシーランド説
1753年ドイツからやって来たフィリップ・ワーリェンによって作曲された「デキシーランド」と言う南部を表した美しい曲がどういう訳か30年程も経った1780年頃になって突然巷で大ヒットします。
この曲は後の『南北戦争』の際に南軍の応援歌としても使わて人々に知れ渡り、ここで「デキシーランド」=南部と言う概念が人々に浸透します。と言う説。
実はこの曲はアメリカでヒットとした二番目のポピュラー・ソング(流行歌⇒はやり歌)と言われています。
さて、それでは一番最初にアメリカで大流行した曲とは一体何でしょうか皆さんご存知でしょうか? それは1750年頃に先住アメリカ・インディアンが始めて白人を見た時に白人を意味する言葉「ドゥードゥル」と言う言葉を既にヨーロッパで人気のあった最も古い童謡、古民謡と言われるメロディーにのせた「ヤンキー・ドゥードゥル・ドゥー」と言う曲(邦題アルプスー万尺)がアメリカで最初のポピュラー・ソングだと言われています。
拡大ワーリェン作曲デキシーランドの譜面表紙
出典:ウィキペディア
拡大ヒット曲デキシーランドの楽譜
出典:ウィキメディア・コモンズ

ミンストレルショ一の功績
18世紀最後の年1799年にアメリカ東北部のボストン(マサチュ‐セッツ州)でこの地の人々に特に関心のあった南部地方とその南部の黒人奴隷を題材にして、黒人の生活内容を白人の観点から捕らえ、面白可笑しく軽快な音楽に乗せて演ずる「ミンストレルショー」が娯楽の少なかった白人社会で爆発的ヒットとなります。
これは白人役者が顔や体を真っ黒に塗りまくり黒人奴隷に扮し、彼等の生活を巧みに風刺し滑稽な仕種をして笑いを獲る物で、T.Vや映画、ラジオ等全く無い時代にこの軽快で楽しい「ミンストレルショーや軽喜歌劇(ヴォードビル)」はその後百年(1世紀)もの長き間アメリカの大衆娯楽の花となっていました。
これはその後時代が移り、その延長線には「ミュ一ジカル」と姿を変え、今のアメリカ社会にも深く定着しています。
右の画像は、日本では余り馴染みの無い「ミンストレルショー」白人の観点から黒人奴隷の生活習慣等を滑稽な題材とし、面白可笑しく演じ、笑いを取る物で、
これは初期の黒人奴隷を露骨に表現していた頃のポスターです。
ミンストレルショーとアメリカ人
この「ミンストレルショー」は正にアメリカ文化や歴史を語る際の最も大きな要素で、アメリカ人の陽気で明るくユーモアと笑いを基調とした感覚⇒センスと言うのはこの「ミンストレルショー」が母体となっていると言っても過言ではありません。
拡大ジェィムス・プラント(1854~1911)
出典:ウィキペディア
「ミンストレルショー」は常に軽快で、陽気で明るい目新しい曲を数多く必要とした為、この時代は実に沢山の作詞家、作曲家が世に登場します。
これは又人々の日常の生活に心に響く音楽は絶対不可欠であると言う喚起を促す事にもなりました。
「懐かしのバージニア/CARRY ME BACK TO OLD VIRGINIA」を作曲した「ジェイムズ・プラント」は花形ミンストレル作曲家としてこの時代最大の名を馳せていましたが、ここで最大の功績を残したのが皆様良くご存知の「スティーブン・コリンズ・フォスター」で、彼の作曲した殆どの曲が黒人に関係しているのはその為で彼は「ミンストレルショ一」に相応Lいメロディーを書く事で生計が成り立っていたのです。
S.Cフォスターは白人社会の一般常識となっていた黒人奴隷を白入の目線感覚で弄(もてあそん)でそれを収入の糧にする等と言う考え方とは異なり、黒人奴隷に対し自ら接する機会を多く持ち常に暖かい思いやりの心を持ち、世間であたり前の様に思われている只、無智無能で動物的でムチを使ってしつけを強要すると言う間違った黒人奴隷とは別に本当は優しい人の心を持ち、黙々と白人の押しつける要望、要求に対して何ーつ文句を言わず、苛酷な労働を強いられている黒人の姿を出来るだけありのままに作詞と作曲をし、「オールドブラック・ジョー」「おお!スザンナ」「主人は冷たき土の中」「ケンタッキ一の我が家」「金髪のジェニー」「故郷の人々」「夢見る人」他数多くの美しいメロディーを世に残し日本は勿論、世界中の人々の心に残るこれ等の美しいメロディ一はアメリカ人の心のメロディーとなり、それ迄知る事が出来無かった「黒人奴隷」の存在そのものとその苛酷な実態を世の多くの人々に知らせる役目を果たしたのです。
T.Vも映面もラジオすら無いこの時代にこの美しいフォスターメロディーが瞬く間にアメリカ全土の人々に知れ渡ったのは「ミンストレルショー」そのものの興行巡業が全米各地隅々まで出向き、多くの人々にそれ迄のやや堅苦しいクラシック音楽とは別の音楽(ポピュラー・ソング)の素晴らしさを広めた事で、日本では余り馴染みの無いこの「ミンストレルショー」が後の「ジャズ誕生」の前段階で実に大きな働きをしたのです。
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ジャズ誕生の前段階
19世紀に入りこのフランス統治のアメリカの中の異国、N.Oに大きな変革が起こります。
この港はメキシコ湾の中の三日月の形をした(ニューオーリンズの別名はクレッセント[三日月]シティーとも呼ばれる)素晴らしいこの良港を巡って当然各国が競って利権を争い、東西地区を分割する等の歴史を持ちますが、1718年に正式にフランスの領有地となり、時のフランスの王様ルイ14世の名に因みこの地を「ルイジアナ/LOUISIANA」と呼ぶ様になりました。
ところが1803年に突然、時の我儘でやんちゃ皇帝"ナポレオン"が己の私腹確保の為に僅か1800万ドル(推定640億円?)と言った価格で合衆国に売却した事から.この土地は正式にアメリカ合衆国の土地となりました。
スペイン、フランス等のヨーロッパ古典文化を基盤に繁栄して来たこの町に、突然奴隷制度が実施されアフリカから数多くの黒人奴隷が加わり、そこに今度は急遽その日からアメリカの法律が施行されると言う実に摩訶不思議な土地が生まれ、その変遷の中で必然的に生まれて来た新しい音楽が「ジャズ誕生」の前段階で、そこには実に複雑な要素がからみ合っていたのです。
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南北戦争
拡大偉大な楽団詣揮者「ジョン・フィリヅブス・スーザ」とアメリカ海兵隊バンド 1891年
出典:ウィキペディア
1861年に南北戦争勃発、1865年北軍が勝利し表向きには南部の「金の亡者達」にとっては不都合な「奴隷解放令」が正式に実施されます。
その時代の日本では1603年の開府から260年以上の長き間続いた「鎖国」が解かれ、1868年には「明治維新」へと移り変わる正に世界中が激動の時代、アメリカ全土ではフォスターの心優しいメロディーとスーザーの作曲した軽快なマーチが大人気。
(ツーステップ⇒2ビートの時代)そんな社会に奴隷開放によって新しく台頭し始めた黒人が作り出した「グルーブ/GROOVE」と呼ばれる4ビートの音楽が世に登場し19世紀後半へ話は進みます。
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(その2)ジャズ誕生以前のアメリカ
拡大ジャズが生まれた19世紀末のニューオーリンズの中心街
出典:ウィキメディア・コモンズ
ここ迄はアメリカ南部N.Oの町の歴史、黒人奴隷の生活環境から生まれた生活音楽、デキシーランドと言う呼び名の由来、ミンストレルショーや黒人霊歌の登場等々ジャズ誕生の前段階の話でしたが、ここからはいよいよジャズの原形が誕生する19世紀末期のお話です。
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今迄にない音楽の誕生
今から百数年以上も前の19世紀末期の話となると私達には余り馴染みが無いので、少しその時代の日本の出来事等と比較をして見ましょう。
アメリカでは19世紀初頭から既に「ミンストレルショー」等の台頭で巷には数多くの大衆音楽が溢れ、1800年初頭には既に「ヤンキー・ドゥードゥル・ドゥー」や「デキシーランド」「旅愁」(オードウェィ)「故郷の廃家」(ヘイス)といった曲がかなり多くの人々に知られていた様です。
こちら日本は正に江戸時代です。
日本の1853年(いやでこざんすペリーさん)は江戸中のみならず日本中が大騒ぎの大変な年で、ペリー提督が浦賀にやって来た「黒船襲来事件」の年で260年以上続いた江戸幕府の頑なな鎖国時代が幕を閉じ明治維新になると言う壮大なドラマが治まった頃です。
アメリカ国内での大事件は何と云っても南北戦争(CIVIL WAR 1860~65)で、その時の南軍を鼓舞する応援歌が「デキシーランド/DIXIELAND」、北軍を鼓舞する応援歌が皆様良くご存知の「リパブリック讃歌/BUTTLE HYMN OF THE REPUBLIC」です。
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日本の西洋音楽の開祖者
拡大「西洋音楽」を日本に導いた「伊澤修二」
出典:ウィキペディア
1867年、日本は『鎖国』を解き翌1868年に「明治維新⇒文明開化」新政府は積極的に西洋文化を取り入れる教育作りを開始し"岩倉具視いわくら ともみ"を特使とし107名の海外使節団員を海外に派遣、二年の歳月を費やし資料を整理し明治5年から学制を制定、学校教育の原形作りがスタートしますが未だ音楽(音楽とは西洋音楽を意味)なるものを理解する人など皆無のこの時代に使節団員の一人、長野県出身の「伊澤修二いざわ しゅうじ」はアメリカのハーバード大学に赴き、これからの日本に何が最も必要な学問かを模索します。
熱心な氏はどの学問教科に於いても彼の努力で克服して行きますが、
こと音楽の授業となると全く歯が立たず、遂に担任の先生は呆れ返ってしまい「君は音楽の授業を受けても無駄だ、明日からは授業に出て来なくて良い!」と迄言われてしまいます。
この時、氏は「これからの日本が世界と共に歩いて行くのに最も必要なのはこの音楽だ!」と痛感し、音楽の三大要素の「旋律」も「和音」もそして「律動」のどれ一つ取っても日本人にとっては全く素養の無い西洋音楽なるものを徹底的に会得する為、当初の帰国予定を三年延ばし.通算6年の歳月を費やしてたった一つの曲を学び帰国しました。
その6年もの歳月を費やして学習した、たった一つの曲とは皆さん良くご存知のスペイン民謡の「蝶々⇒ちょうちょ、ちょうちょ、菜の葉にと~ま~れ~」です。
帰国後、彼の血の出る様な努力によって新しい日本の西洋音楽の素地が少しづつスタートしますが、正に「伊澤修二」はその開祖者です。
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小学唱歌
拡大明治14年の「小学唱歌集 初版」の貴重な表紙
出典:国立国会図書館
文部省は明治14年頃に漸く「小学唱歌集」三巻を編纂、少しづつ音楽教育の素地が出来始めた明治21年に大和田建樹おおわだ・たけき(宇和島出身)なる人が子供の情操教育に音楽は絶対必要、と数多くの西洋音楽に自らが作詞や訳詞を手掛け、『明治唱歌第一集』を出版した事がきっかけとなり明治22年(1899年)から文部省は音楽教育に真剣に取り組む様になったと云われています。
大和田建樹の名をご存知無い方でも彼が作詞の「鉄道唱歌」は皆さん良くご存知でしょう。
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アメリカと日本の違い
アメリカでは既にヨーロッパから数多くのクラシックメロディーや古民謡音楽が入って来ており、加えて「ミンストレルショ一」や「ヴォードビル(軽喜歌劇)」の軽音楽等が巷に溢れ、黒人霊歌(ニグロ・スピリチュアル)ブーム、軽快な数多くの曲を生み出したスーザーの行進曲(マーチ)やフォスターの「おお!スザンナ」他心優しいメロディー等が巷に溢れていた、そんな時期の日本での巷のはやり歌と言えば、明治十年(1877年)西南戦争で勝利の官軍の歌「みやさん、みやさん⇒トコトンヤレ節」や、はやり歌の「どんぱん節」と言った類いです。
上述の明治14~17年頃文部省が真剣に音楽授業に取り組んで採用した「小学唱歌集」最初の唱歌は「トコトンヤレ節」〔宮さん宮さんお馬の前に、ひらひらするのは、)でした。
こと、洋楽に関して言えばアメリカと日本の音楽環境レベルが余りにも違うのが皆さん容易に想像出来るでしょう。
異なる環境の中から生まれる異なる音楽の必要性、そこから必然的に生まれて来た新たな音楽それが後に『ジャズ』と呼ばれる音楽誕生の宿命だったのかも知れません。
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四つの大きな出来事
話をN.Oの町に戻しましょう。
南北戦争が終結し黒人は「奴隷解放」によって自由の身となったものの、それ迄全く異郷の白人の地に連れて来られた黒人奴隷達はその日から己れの力で生きて行かねばならなくなったと言う現実。
その彼等の生活は想像を絶する極めて苛酷な状況が続きます。
そんな彼等の生活の中で喜びを得るたった一つの手段が彼等の「音楽」でしたがその音楽自体に様々な変革が突然起こり始めます。
その数ある理由の中から代表的な物に次の四つの大きな出来事が挙げられます。
①最大の要因の一つは、リンカーン大統領がもたらした「奴隷解放」そのもので、多くの黒人奴隷はその日の内に今まで拘束されていたプランテーション(綿花や砂糠きび畑)に「もう、こんな所には二度と来ないぞ!」と唾を吐き捨て去って行ったのですがその喜びも束の間、その日からは異郷の地で、己自身で生活をしていかねばならないと言う白人の身勝手で異国の地に強制的に連れて来られた黒人達にとってこれ又、実に苛酷極まりない新たな歴史のスタートとなったのです。
②二つ目は彼等が必死に生活の糧を得る為にあらゆる事を模索中にそれ迄は決して触る事や手にする事が一切出来なかった黒人奴隷にとっては憧れの金管楽器が戦争に敗れた「南軍軍楽隊」によって巷に大量に中古品として出廻った事で、それを手にし見よう見まねで少し上達すると不思議な事に普段は全く相手にしてくれない白人達から「面白い、もっとやって見ろ!」とか「今度、うちの町会でパレードがあるから来い!」とか、それ迄は一切人間扱いをされた事が無かった彼等にどういう訳か楽器を上手に奏すると、白人達が見向きチップを呉れるので、元来陽気で音楽好きな彼等はそこに素晴らしい才能を発揮して行くのです。
拡大ジャズの原点の葬儀パレード風景
出典:ウィキメディア
③三つ目は当時の社会そのもので、巷には軽快なスーザーの行進曲や心暖まるフォスターメロディーを始めとしミンストレルショー等々の音楽が人気を博し世の中全般が大衆音楽を多く必要とし数多くの楽団が求められていた時代、然し、実際に音楽が必要と言ってもここ南部N.Oの暑さは異常で、更に葬式のパレードや墓場で埋葬時の演奏、酒場や売春宿での夜通し演奏、街頭での呼び込み演奏、冠婚葬祭のパレード演奏等は、とてもとても白人には好ましい条件で無かったのですが、夜通しだろうが猛暑炎天下でのパレードだろうがどんな苛酷な条件下でもそれよりも苛酷な農園や波止場での奴隷経験を過ごした黒人達には充分活動が出来たのです。
こうしてN.Oの町で黒人音楽の演奏機会が増すに連れ、この音楽の虜になる白人達も急激に増えていったのです。
④四つ目は19世紀末1897年に突如N.Oの町に『紅灯街』なる「売春容認地区」なるものが誕生します。
この町の第38街区「ベイズン・ストリート/BASIN STREET」から北の「ロバートソン・ストリート/ROBERTSON STREET」迄の一角を当時の市議会がここを赤線歓楽街と指定した為、N.Oの町はその日を境に大いに栄える事になります。
この立案者、ストーリーと言う男の名をとってこの地区は「ストーリ一・ビル/STORY VILLE」と呼ばれ、それ迄の白人社会では奴隷としての職業以外が無かった多くの黒人達の仕事場が数多く出来、同時に白人に受け入れられる多くの演奏する機会が産まれます。
これが後のジャズと呼ばれる音楽の原型作りに大きく貢献する事となります。
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この時代に一人の際立ったハンサムな
クレオール人のコルネット吹きが登場します。
バディー・ボールデンの登場
未だコンサートホールや今で言うライブハウス等は世に存在せず、演奏をするのは常に街頭や広場でのパレードが当たり前のこの時代、町にはブラスバンドスタイルのパレードバンドが数多く存在していました。
その中の一番人気チーム「イーグル・ブラスバンド/EAGLE BRASSBAND」の人気コルネット奏者、「バディ・ボールデン/BUDDY BOLDEN(1868~1931)」が1894年に自分の小人数のバンドを結成し人気を得て、特にストーリービルの大ボス「トム・アンダースン」が気に入り彼の『クラブハウス』で演奏する様になりここで絶大な好評を得ます。

☆これが歴史上
最初の「ジャズバンド」と言われています。

無論、音響設備等無い時代ですのでクラシックでもマーチングバンドでもその編成は常に20人以上のプレーヤーが必要となり、大人数になる程迫力があり人々に人気があった時代に、「B・ボールデン」は何と、コルネット1~2本にクラリネットとトロンボーン各1本の僅か3~4人の編成でメロディーセクション(旋律部門)を作り、ハ一モニー(和音)とリズムセクション(律動部門)にはチューバ(又はベ一ス)、バンジョー(又はギター)で編成し更に室内でしか使えないピアノとドラム奏者各一入と言う、当時としては極めて画期的な総勢僅か7~8人の少人数バンドで構成し、人々の話題を集めたのでした。
ごれが歴史上最初の『コンボバンド』です。
これがどんなに凄い事かと申しますと、これから百年以上経った現在でも世界中のデキシーランドジャズバンドの基本編成スタイルは彼の考え出したスタイルと殆ど変わっていないのです。
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D.D・チャンドラーの発明


「ドラム」から「ドラムス」の時代へ
経費を浮かす為か「B・ボールデン」が画期的な少人数バンドの編成を可能にした大きな理由が一つあります。
どのバンド編成でもリズムセクションにはドラムと言う楽器が必要不可欠ですが、ご存知の通り通常のオーケストラやブラスバンドでは、

☆小太鼓担当者、
☆大太鼓担当者、
☆ベッケンと呼ばれる合わせシンバル担当者、
☆トライアングルや大きなシンバルの担当者、
☆ティンパニー奏者等

どのバンドも打楽器部門だけで最低でも4人から5人のパーカッション奏者が必要で、その頭数が多いバンド程音量が大きく迫力の点で人々に人気があったのです。
そんな訳で当時は20名以下のメンバー構成で自分好みの少人数プライベートバンド編成等をすると言う事自体が論外でしたが、1894年に、「D.D./(ディー・ディー・)チャンドラー」と言う小太鼓奏者が、相方の大太鼓奏者と口喧嘩をし、相手方が怒って休んでしまいやって来ないので困ってしまった彼は急遽、自分の右足を使って大太鼓を打ち鳴らす木製フットベダルを考え出し、彼は小太鼓と大太鼓を同時に演奏し大いに話題を呼びます。
D.D.チャンドラーはその特技を生かし、一度に小太鼓と大太鼓を奏するドラマーとしてコンサートを数多く開催して、町中の話題となります。
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ジャズドラムの歴史
ここからドラムを演奏するドラマーはそれ迄は立って演奏するのが当たり前でしたが椅子に座る様になり、そうなると「もう一方の左足でベッケンシンバルを鳴らそう!」と後にはハイハット・シンバルの原型が考え出されそれ迄は複数人数が絶対条件のドラムと言う楽器が僅か一人で演奏可能な楽器に変身します。
(ドラム⇒ドラムス)
このジャズの歴史上実に大きな発明発見は人々から余り高い評価を受けていませんがジャズ発展史上の実に大きな隠れた出来事で、「B・ボールデン」はいち早くここに目をつけ少人数バンドを作り上げる事に成功し名声を挙げたのです。
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ピアノブームとその社会
19世紀末のアメリカでは白人上流社会(HIGH SOCIETY)のステータスシンボルとして爆発的なピアノブ一ムが巻起こり、多くの家庭にピアノが普及しますが音楽教育等は未だ未だ限られた社会だったのでピアノがあっても弾ける人は存在しない。
そうなると当然、その家の主(あるじ)としては自分の娘に対し無理強いのピアノ教育を強要する。
一方遊び盛りの娘の方はそのレツスンから何とか逃避する手段として、その家の黒人奴隷のお手伝いや黒人奴隷の召使いを呼びつけ無理やりピアノに触れさせ、「ベスやジョーが触ったから、もう私はピアノなんか弾かない!」等と難癖をつけ拒絶する。
そんな社会での「ピアノ」と言う楽器は、黒人にとっては白人と共に実に憎っくき象徴の一つだったのです。
「B・ボールデン」はバンド仲間や周囲の人々の猛反対意見を押し切り自分のバンド編成にこのピアノと言う楽器を敢えて取り入れたのです。
勿論音楽的見地から、或いは後の時代から見るとジャズにピアノと言う楽器は非常に重要な楽器ですが、当時の情勢下で黒人バンドがピアノを用いた編成をする等と言うのはとんでも無い発想だったのです。
一説では、これは彼の白人社会に対する強烈な反骨精神の表れと言われ、芸術家の真髄(エスプリ)とも言える、間違いだらけの社会に対し常に敢然と立ち向かう「反骨精神」と「音楽に対する情熱」を貫く彼のこの姿勢はその後のデキシーランドジャズサウンドにしっかりと受け継がれて行きます。
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ラグタイムバンドの登場
ピアノはあるが実際には鳴らす人がいない、そこでそのピアノを鳴らす手段としてロールペーパーを使う自働ピアノ演奏装置が十九世紀後半に登場しこれが一躍大ブームとなり、当然そのロールペーパーがこれ又爆発的に普及し、どの家庭でもベートーベン、バッハ、ブラームス、シューベルト、モーツァルト、リスト、ワーグナー、シューマン、シュトラウス、ショパン、チャイコフスキー・・・と数多くのクラシック音楽を気軽に楽しむ事が出来る様になります。
やがてそんなクラシック音楽に飽きて来た一段大衆向けに発売された全く目新しい音楽、今迄のビートに比べてややタイミングがずれると言う意味の「ラグタイム」なる音楽が世に登場し、これが一躍大反響を呼びます。
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ラグタイムブーム
後に「ラグタイムの父」と呼ばれる「スコット・ジョプリン/SCOTT・JOPLIN 1868~1917」が1899年に書いた「メイプルリーフ・ラグ/MAPLE LEAF RAG」を始めとしたラグタイム(RAGTIME MUSIC)のメロディー等がロールペーパーを通し巷で大ヒットとなります。
このヒツトにあやかり「B・ボールデン」は彼のバンド名を「ラグタイムバンド」と命名します。
ジャズがその呼び名を「ジャズ」と呼ばれるのはこれよりかなり後の事で当初数年はこの新しい音楽を人々は"ラグタイム”と称していました。
今では「ジャズの父』と呼ばれている「B・ボールデン」は伝説的なコルネット奏者で、
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伝説のコルネット奏者
1905年頃に撮影されたと言われる歴史的に貴重な一枚の写真。
後列左から二番目に写っているのが伝説的コルネット奏者「バディー・ボールデン」彼の右側のトロンボーン「ウィリー・コ一ニッシュ」と前列のクラリネット「フランク・ウィルス」も彼の楽団のメンバーであった
出典:ウィキぺディア
確かな事な彼は幾つかのバンドのリーダーをして既に初期のラグタイムと呼ばれる様式で演奏をしていたN.Oの代表的コルネット奏者の一人で、事実はともかく世界で最も大きな音量のコルネット吹きと言われ、信憑性は無いのですが当時のN.Oにかなりの距離(推定7~8km?)を隔てて二つの大きな遊園地「ジョンスン公園」と「リンカーン公園」が存在していましたが伝説では、「B・ボールデン」がジョンスン公園で演奏する際に、公園の柵の間にコルネヅトを突っ込み、リンカーン公園の人々をジョンスン公園に引っ張り込む合図を吹き鳴らしたと言う話が残っています。
別の伝説ではあの大河ミシシッピーの対岸でも彼の音色が聞かれた、と言うのもあります。
元々床屋だったハンサムボーイの逸話はまだまだ沢山あるのですがそれは又の機会に、何故彼がハンサムボーイだったかって? バーボンストリート(BOURB0N STREET)、ロイヤルストリート(ROYAL STREET)等、町の中心地でパレードが始まり彼のラッパがバンドのテーマ曲「センセーション・ラグ/SENSATION RAG」の最初の4小節を吹くと、その音を聞きつけ町中の酒場の女共は競ってその行進に駆けつけたと言うエピソード、酷い梅毒に冒され演奏中に突然発狂したと言うエピソード、晩年の十数年は反狂乱の闘病生活と言う悲惨なエンディング人生といった記録も残っています。
然しこんな伝説の男「B・ボールデン」のサウンドを実際に聞きたくても音を記録する発明は、エジソンの蝋版蓄音機発明が1877年の事でこの時代は未だこの歴史的サウンドを記録する技術が無かったので今となってはどんな音楽、どんなサウンドだったかは只々想像するしかありません。
19世紀末に小さな花を咲かせた「ラグタイム」と呼ばれたこの新しい音楽は力強く成長し、時代はいよいよ20世紀に突入して行きます。
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(その3)激動の20世紀の幕開け
ここ迄はアメリカ南部ルイジアナ州の「ニュー・オーリンズ⇒N.O」で起こった19世紀末迄のジャズ誕生前段階の出来事、ここからはその続きで時代は愈々20世紀に入り世間に序々に知れ渡る全く新しい音楽、ジャズが誕生し瞬く間に大きく成長して行く1920年代初頭迄の姿をお話します。
20世紀の始まり、西暦1900年(明治33年)とは一体どんな年だったのでしょうか?勿論このお話を偉そうにしている筆者も全ては人から聞いての話ですので、皆さんは常に補足してお読み下さい。
確かな事は20世紀初頭迄の世界は全てが白人社会⇒「ヨーロッパ支配」の時代だったと言う事です。
ジャズ物語の中に突然歴史の史実を持ち出すのは場違いですが、この時代を少しでも皆様に良く理解して頂く為に多少の歴史上出来事を持ち出した方がより判り易いので、どうぞお許し下さい。
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世界の中心地パリ!
拡大1900年パリ万博のパノラマビュー
出典:ウィキペディア
20世紀⇒1900年最初の年の最大の話題と言えばフランスの首都、パリで開催された"世界万国博覧会"で、アールヌーボー様式の美しいエッフェル塔が町の中心にそびえ、当時としては斬新なメトロ(地下鉄)が走り、最新の技術を駆使した驚きの動く歩道、エスカレーターも登場、全てのファッション⇒全ての文化はパリから世界中に発信され、憧れのカンカン踊りの「パリ」!絵画の聖地「モンマルトルの丘」、誰もが疑う事の無い強きヨーロッパの中心、その象徴の町「パリ」で開催された「万博」は正に強きヨーロッパを誇示する実に大きなイベントだったのです。
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大きな矛盾
然し、いつの世も同じでその万博開催の華やかな表の顔と裏側の実社会には大きな矛盾を抱えており、この20世紀最初に開催された記念すべき「万博」を境にヨーロッパは自ら没する運命を辿る事となり時代は陰惨で暗く長い世界戦争時代へと突入して行きます。
延々と続いて来たヨーロッパの栄華、繁栄を支えて来た、只身勝手で自已中心、自己美化発想の「植民地奪取、略奪搾取時代」の行き詰まり終焉、「王政貴族社会」の崩壊等々、ともかくも天地がひっくり返る様々な出来事がヨーロッパを始めとし世界各地で巻起こり、その反動はいつの時代も常に最も力の弱い一般市民に重くのしかかり正に暗い貧困社会となります。
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アメリカの参戦
拡大若者向け、軍隊入隊を呼びかけるポスター 1914年
出典:ウィキメディア・コモンズ
こんな時の哀れでさもしい人間の考えつく事はいつの時代も変わらぬ人間の性(さが)!アホで間違いだらけの自己美化、自己評価、自己判断、自己中心の相手の立場等一切お構い無しの「戦争」をする事で、1914年には遂に「第一次世界大戦」が勃発します。
この戦争でドイツだけでも千二百万人の兵士が動員されたと言う大戦争でヨーロッパ社会の崩壊が始まり世界中が不安定社会になって行く中で比較的に冷ややかだった「成金新生大国⇒アメリカ」も1917年四月に、この大戦に参戦します。
ヨーロッパの人々の貧因から逃れる手段として「自由の国」を謳歌していたアメリカへの移民が一大ブームとなり、あたかも18世紀から19世紀にかけてルイジアナ州N.Oの町がアフリカからの黒人奴隷によって急激に膨れ上がったのと同様、全米各地にヨーロッパから大勢の移民が流入し、アメリカの入口が急激に増え始めたのも20世紀初頭の顕著な特色の一つです。
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タイタニックの沈没
「第一次世界大戦」開戦二年前の1912年6月イギリスの国力を誇示すべく建造された不沈豪華客船「タイタニック」はこのヨーロッパからアメリカに行く移民を当て込んだものでしたが、その処女航海で沈没と言う大事件は世界中の人々の先行きに暗い影を暗示させたのです。
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ラグタイム、ヴギ・ウギ、ブルース
話をジャズの方に戻しますと、19世紀後半に南部N.Oで新しい音楽「ジャズ」の母体要素が結集し、「B(バディー)・ボールデン」によって新世紀に向けてジャズは最初の"小さな花"を咲かせ、N.O「紅灯街の売春宿」の黒人プレーヤー仲間によって日々刻々と進化し続け様々な様式変化を受け新しい音楽は「ラグタイム」「ヴギ・ウギ」「ブルース」等の新しい形態を生み出します。
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「ラグタイム」の作曲家
ラグタイムで名を馳せた作曲家と言えば、
「スコット・ジョプリン/
      SCOTT JOPLIN 1868~1917」
「ジェイムズ・スコット/
      JAMES SCOTT 1886~1938」
「ジョゼフ・ラム/
      JOZEF RAM 1887~1960」
他の名が挙げられますが最も有名なのはスコット・ジョブリンです。
拡大ラグタイムの父
「スコット・ジョプリン」
出典:ウィキメディア
彼は1868年11月24日テキサス州テキサカーナに生まれ、以前奴隷の身だったヴァイオリン弾きの父親と歌手の母親と言う極めて音楽環境に恵まれた家庭で育ち、兄弟共々音楽の才能を備えていました。
彼の最初の出版曲は1895年「彼女の肖像/A PICTURE OF HER FACE」と言う歌曲でしたが1899年に最初のラグタイム作品「オリジナル・ラグス/ORIGINAL RAGS」と数10万部のヒットとなる彼の代表曲の一つ「メイプルリーフ・ラグ/MAPLE LEAF RAG」を出版し、一躍音楽界にスターダムします。
1917年に亡くなる迄の59年の彼の生涯で、数多くの歌曲やバレー曲と53曲のピアノ曲を作曲、その中にはあの「エンターテイナー/THE ENTERTAINERS」も含まれ、今では「ラグタイムの父」と呼ばれています。
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ヴギ・ウギ
「ヴギ・ウギ」とはブルース・ピアノの一つの演奏様式で、左手を黒人独有の「バンプ」と言われるシンコペーションの効いた一定の音型を纏り返し右手がリズミカルな楽句を展開する特徴を持つ当時かなり人気があった黒人独特の"乗りの良い"スタイルで、1929年シカゴで喧嘩騒ぎに巻き込まれ24才の若さで死んだ「パイントップ・スミス/PINETOP SMITH 1905~1929」の名が知られています。
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ブルース
拡大19才のWC・ハンディ
出典:ウィキペディア
「ブルース」は「ブルースこそジャズの源さ!」と言われる程ジャズとは互いに密接で深い関係があります。
このブルースを世に知らせるのに多大な貢献を残した人は何と言っても「セント・ルイス・ブルース」の作者で知られる「ウィリアム・クリストファー・ハンディ/WILLIAM CRISTOPHER HANDY 1873~1958」で、彼は黒人作曲家として有名ですが自らがコルネット奏者であり、楽団リーダーとしても活躍、常々自らが「ブルースの父」と称していましたが、周りの人々は何かにつけ常に「銭々」と言う彼を「ブルースの商人」と呼んでいた様です。
1873年、アラバマ州フローレンス生まれの彼は作曲だけでなく伝統的なアメリカ黒人音楽の収集にも力を入れ、自らの作品に数多く取り入れた事でも知られています。
彼の最初の作品は1909年メンフィスの市長選の運動曲として書かれた「ミスター・クランプ/MR、CLAMP」でこれは後の1912年に「メンフィス・ブルース/MEMPHIS BLUES」と改題し出版され大ヒットします。
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セントルイス・ブルース
拡大WC・ハンディーと農工師範大学の吹奏楽団アラバマ州ハンツヴィル 1900年頃の写真
出典:ウィキペディア
「W・C・ハンディ」の名を不滅の物にしたのは1913年に作曲された「アメリカの第二国歌」とさえ言われる「セントルイス・ブルース/St.LOUIS BLUES」で、この曲が一躍世間で有名になったのは1925年コロンビアレコードによって「ブルースの女王」ベッシー・スミスと、あの偉大な「ジャズの王様」トランペットのルイ・アームストロングの歴史的録音が為され、これにより人々の心にこのメロディーは強烈に焼きついたのです。
その収録に立ち会った際の地元新聞記者からの質問に対し「ハンディ」が語ったコメント「ジャズに名曲は無し、ただ名演奏あるのみ!」は当時の流行語になった程です。
「セントルイス・ブルース」「メンフィス・ブルース」「ケアレス・ラブ」「イェロードッグ・ブルース」「アゥントヘィガース・ブルース」他百数曲を残しました。
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ストーリービルの閉鎖
拡大高級娼館の並ぶ1907~1908年頃の
ベイシン・ストリート
出典:ウィキペディア
「B・ボールデン」の「ラグタイムバンド」が当時のN.Oの町の大ボス『トム・アンダースン』の店でパーティーバンドとして演奏をして街中の評判になると多くの紅灯街の仲間が同じ様なバンドを結成し、世の中は20世紀を迎えます。
ジャズ誕生の話でそれがどの時期の、どのバンドでなのかを正確に限定するのは難しい事で未だにその結論を出した人は誰一人おりません。
この時代既に活動していた先駆者達の誰もが仮に「我こそが最初だ!」と豪語したとしてもそれは決して間違いでは無い程数多くの人々、或いは多くの場所で後にジャズと呼ばれる音楽は演奏されていたのです。
それはあたかも自然発火の野火が燃え広がる様にこの激動社会に拡がって行ったのです。
この自然発火の起点となったN.Oの町には1897年に突如一大赤線歓楽街「ストーリービル」が設けられ、ここだけは別世界の繁栄を成し、日夜ジャズが溢れクレオール人にとって正に「この世の天国」が築き上げられていたのですが、ストーリービル「21歳」の1917年4月に突然アメリカの第一次世界大戦参戦が決定、時の海軍大臣と陸軍大臣のプライド合戦が始まり「我が軍の駐屯地の傍に"売春歓楽街"なんぞがあっては士気に影響する! 12月迄に完全撤去を!」と先ず陸軍大臣が撤去命令を発表すると負けてはならぬと、海軍大臣から「それでは遅い!10月迄に退去を!」等と言い出し、そこに時の市長が偉そうに割込み何だかんだと論議が為され、結局未曾有の栄華を誇っていたストーリービルはその年、1917年12月12日に完全に閉鎖されてしまったのです。
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夜の蝶々さん
これで大痛手を受けたのは(登録をしっかりと受けていた)2、200人程の「夜の蝶々」さん達とまだ一般の世の中には殆ど知られていない"訳の分からない、怪しい音楽"で生計を立てていた多くの黒人音楽家とその黒人音楽の魅力に心酔していた白人プレーヤー達でその日からのお仕事が全く無くなってしまったのです。
それでも「夜の蝶々」さん達に対しては、教会の婦人幹部やルイジアナ婦人クラブ等のおばちゃま方が、これ又偉そうにおせっかいの産物「売春婦救済委員会」なる物を作り、救済活動をせっせと開始しますが実際には「夜の蝶々」さんの方は誰一人この救済活動の入口をくぐらなかったと報告されています。
つまり「蝶々さん」には素敵な羽根があったのでN.Oの各所に散らばり各々自由に飛び回って宜しくやっていたそうです。
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惨めなバンドマン
その一方、極めて惨めだったのが"怪しい音楽"だけが頼りのバンドマン達で彼等には一切の救済活動等無く明日の食事の当てさえ無い暮らしが突然始まり、やがてある者はシカゴへ、ある者はN.Yへ、ある者は・・と大半がN.Oの町から離れて行くのです。
(凡そ90年後の2005年N.Oを襲ったハリケーン「カトリーヌ」でここに書かれてる「紅灯街閉鎖」と全く同じで多くのミュージシャンが離散して行った。) ジャズそのものはストーリービルの閉鎖等にお構い無く自然発火の野火の様にアメリカ各地に広まり、たまたまその地にN.Oを離れ出向いた黒人音楽家達はその地でそれなりに生活して行く事が出来たと言うそんな時代がジャズ誕生の前段階です。
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創世期のプレーヤー
1800年代の終わりから1900年代初頭生まれの一握りの人々を掲げると
(順序不同)、
名の知られた演奏家達
バディ・ボールデン('68~'31)
フレディー・ケパード('90~'33)
ジム・ユーロツプ('81~'19)
バンク・ジョンスン('79~'49)
キング・オリヴァー('85~'38)
マット・ケァリー('91~'48)
シドニー・ベシェ('97~'59)
ミフ・モール('98~'61)
メズ・メズロウ
ジョニー・ドッズ
ベビー・ドッズ
ウィルバー・スウェットマン('82~'61)
バーニー・ビガードジェリー・ロール・モートン('85~'41)
クラレンス・ウィリアムス('98~'63)
ジミー・ヌーン('95~'44)
ジョニー・ダン('97~'37)
ベニー・モートン('94~'35)
ルイ・アームストロング('00~'71)
W.Cハンディ('73~'58)
キッド・オリー('86~ )
リル・ハ一ディン('98~'71)
オノレ・デュトレー
ベビィー・ドッズ

女性ブルース歌手
マミー・スミス('90~'46)
マ・レイ二ー('86~'39)
アイダ・コックス('89~'67)
べッシー・スミス('95~'37)

ピアニスト達
スコット・ジョプリン('68~'17)
ユービー・ブレイク('83~'83)
ラッキー・ロバーツ('95~'65)
ウィリー・ザ・ライオン・スミス('04~'43)
ジョゼフ・F・ラム('87~'60)
ジェームズ・P・ジョンスン('84~'55)

といった名が挙げられます。

無論ここに掲げているのはほんの氷山の一角で実際は数多くの黒人プレーヤーとその黒人音楽に魅力を感じ、演奏活動をしていた白人プレーヤー、そしてその関係者達も皆、既にこの新しい音楽で生計を立てていたのです。

拡大 マミー・スミス
プルースシンガー5・スミスの一人 (1830~1946)
出典:ウィキペディア

拡大 「ブルースの女王」ベッシー・スミス(1834~1937)
1936年2月3日カール・ヴァン・ヴェクテン撮影
出典:ウィキペディア

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ジャズの語源
「ジャズ」と言う呼び名が巷でささやかれる様になったのは1918年頃と言われ、その語源については売春宿の娼婦が良く用いる香水の「ジャスミン」からとか、アフリカで使われていた言語からとか色々あり当初は『JASS』と呼ばれていたのが『JASS』の『J』の一文字を取ると『ASS/お尻』となるので『JAZZ』となったと言う説他諸説ありますがどれも定かではありません。
とも角もこの類いの音楽の当初の演奏場所と言えばN.O始め全米各地の(売春)歓楽街を中心とした極く限られた特別な地域であった為、この音楽を知り獲たのはこれ又限られた僅かな人々だったのです。
それ故全米各地の歓楽街では殆ど同時発生して出来たこの音楽のスタート時期や特定場所を限定するのは今となっては不可能ですが、ここに誰もが認める一つの歴史的な明確な出来事が登場します。
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初めてのジャズ録音

拡大オリジナル・デキシーランド・ワンステップ
Original Dixie Land One Step
出典:ウィキペディア
1877年エジソンが蝋版式蓄音機を発明、これで人類は音の保存が可能と言う時代に入りますが、まだジャズの激しいサウンドを記録する技術に達するにはかなりの時間を要しました。
30年後の1917年になって格段に音質の良い"電気録音方式"が「コロンビア」と「ビクター社」によって開発され、それに見合う何か目新しいサウンドは?と、音源を物色している時に当時シカゴで大いに話題を呼び大反響を巻き起こしていた「デキシーランドジャズ」にその白羽の矢が当たります。
N.Oの紅灯街閉鎖でこの時はシカゴに来て演奏をしていた1908年結成以来様々なバンド名でN.Oの町で演奏をしていたイタリア系、左利き白人のコルネット奏者ニック・ラ・ロッカ率いる「オリジナル・デキシーランド・ジャズバンド/ORIGINAL DIXIE LAND JASS BAND」(レコ一ド発売に際し、JASSでは不都合と直ぐ後にJAZZBANDにバンド名を変更)を「コロンビア」社が一行をN.Yに呼び寄せ、その四日後に録音されましたがこれは不調で直ぐには発売されませんでした。
それから四週間後に今度は「ビクター」社で4曲を録音しその僅か7日後に一枚75セントで発売した所、二枚目のSP盤「リヴァリ一・ステイブル・ブルース/RIVERLLY STABLE BLUES」と「オリジナル・デキシーランド・ワンステップ/ORIGINAL DIXIE LAND ONE STEP」が大反響、世に一大センセーションを巻き起こします。
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デキシーランドジャズ第一黄金期
当時の白人社会では黒人を白人社会のレコーディングスタジオに招き入れて(ましてやジャズの)録音をする事等はとても考えられなかった時代ですので黒人の演奏をヒントに、デキシーランドジャズの虜になっていた白人演奏家の演奏がともかくも"歴史上初のジャズ録音"となりその発売が為されこの2枚のレコードが大ヒットとして『デキシーランド・ジャズ第一黄金期』の幕が上がります。
E(エルビス)・プレスリーがロックンロールを引っ提げ登場した時や、ビートルズが世に登場する時と同様、いつの時代でもそうですが決まって時代について行けない年寄りや只アホで間抜けで保守的なおばちゃま達の"さもしいモラル"によってこの音楽は極めて"卑猥な音楽"と決めつけられますが、アメリカ中の白人の若者達が真っ先に飛びつき、当時50ドル程のサウンド・ホーン型音響の手巻蓄音機がどの家庭にも普及し始め空前の"レコードブーム"が起こり始めます。
ジャズはここで始めて一般市民権を得、晴れて「ジャズ誕生」となり、ここからジャズの原点「デキシーランド・ジャズ」の『第一黄金期』が始まるのです。
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ジャズ史上重要な「1917年」
1917年(大正6年)はジャズ史上、最も重要な年です。
レコード盤の登場は1900年初頭から既に始まっていましたが録音レベルが低く、音域が限られていた為、インストゥルメンツ⇒楽器そのものの録音には不向きで、オペラや一部のクラシック音楽の声楽の域が全てで、その頃世の中に全く知られていない『ジャズ』の類いの録音と言うとべッシースミスを始めとするファイブ・スミス(5 SMITH)と呼ばれ人気を博した女性ブルースシンガー達の「歌物」の域で、激しいインストゥルメンツのコルネット(この時代は未だトランペットと言う楽器は 世に出ていない)や、強烈なビートを叩き出すドラム等のサウンドの録音等は到底考えられない時代に、電気録音技術(マイクを使用する)の進歩でSPレコード盤⇒(材質はシェラック)が世に登場します。
このSP盤はそれから凡そ30年後の第二次世界大戦後の1948年8月にコロンビアが画期的な33 1/3回転のLP盤⇒(材質は塩化ビニール)を世に出す迄の実に長き期間、レコードと言えば78回転のSP盤時代が続きこの間に250以上のレーベル(レコード会社)が登場しジャズの発展に実に大きな貢献をしました。
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狂乱の1920年代

拡大O.D.J.B オリジナル・デキシーランド・ジャズバンド
コルネット奏者がリーダー「ニック・ラ・ロッカ」
出典:ウィキペディア
ニック・ラ・ロッカ率いる「ODJB」のデキシーランドジャズがこの輝かしいSP盤のレコード時代の幕開け役を演じ、ジャズは一気に市民権を得た事により、この怪しい音楽を奏する黒人そして白人プレーヤーの立場は一変し、時代はあの狂乱の1920年代「ローリーングトウェンティース/THE ROALING 20'TH」に入り世の中の"ジャズブーム"は留まる所を知らず常に社会の話題の中心となる程に急成長し、それがジャズそのものとそれ迄一切白人社会から疎外され続けて来た黒人演奏家の立場をほんの少しづつですが好転させて行くのです。
(然し、現実は未だ未だ、どてもとても黒人は人間扱いをされてませんが、)
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ルイ・アームストロング
あの偉大な『ジャズの王様/KING OF JAZZ』トランペットのルイ・アームストロングは、この時代の代表的黒人プレーヤーで、1925年コロンビアでべッシー・スミスとの「セントルイス・ブルース」の録音は巷では「世紀の録音」とさえ言われ、当時の大きな話題となり、それ迄劣勢の「コロンビア社」はこの一枚のレコーディングでそれ迄優位の「ビクター社」と肩を並べる座を勝ち取る事が出来たと言う社会の話題になる程ジャズは急成長して行きます。
又、アメリカの世界大戦参戦は兵隊と共にヨーロッパの地に確実にジャズの火種を運び、ヨーロッパでもにわかにジャズブームか巻き起こり、イギリスは早速、白人バンドの「ウィル・マリオン・クック楽団」やジャズの創始者として「ODJB/オリジナル・デキシーランド・ジャズ・バンド」等を招き、フランスではクレオール人の「シドニー・ベシェ」や「アルバート・ニコラス」等多くの(フランス系)クレオール人プレーヤーの演奏が熱狂的な支持と喝采を浴びます。
こうしてジャズは生まれて間もなく瞬く間にヨーロッパでも圧倒的な支持を受け一気に市民権を得るのです。

「ジャズの王様」L.アームストロング(1900~1971)
出典:ウィキペディア

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三分間の芸術表現
現在のi-PAD、DVDやCD、或いはLPレコードと違って、SP盤レコードの録音時間には、三分と言う時間制約があったので、音楽家達はそれ迄自由で無秩序だった演奏時間を、僅か三分と言う時間内にいかにして、己の芸術をどうやって収めるかと言う新たな挑戦が始まりました。
これはジャズそのものをより簡潔にする宿命となり、人々が気軽にジャズを受け入れる大きな要因となったのも事実です。
世の中にSP盤のレコードなるものが登場し、そこにジャズと言う新しい音楽が登場。
やがて1922年にはピッツバーグから歴史的なラジオ放送が始まり、巷にジャズが溢れ、映画は無声から有声になり、全てがブーム、ブームの何もかもがともかく大いに狂いに狂ったアメリカの強烈な『狂乱の"ローリング20TH'"』時代が始まります。

1「Vol1.ディキシーランドジャズ誕生の歴史」はここまで
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